休息
※この記事は生徒さん本人の了承を得ています。
年末年始、父親の具合が悪く、、、ということでレッスンをお休みしていた生徒さんと、今日、久しぶりにレッスンがあった。
男性のバーンスリーの生徒さんで、女性生徒が多い僕にとってその存在自体が嬉しい人の一人。
心配してたので、車で駅に迎えに行ってすぐにお父さまの様子を聞いたのだが。。。
年始に他界されたそう。
びっくりした。
あまりにも急な展開。
心筋梗塞だったよう。
悲しい、悲しい出来事。
言葉には言い表せない事だと思います。
今から自宅でのレッスンで何ができるだろうと考える。
最近、綿本彰さんのWSや本により、研究しなおし実践している瞑想。
僕は昔、いや、最近まで瞑想とは、、、何か壮大な、、、そう、「悟り」を得るかどうか。。。
みたいな極論で考えていた。
それも間違いではないみたい。
しかし、彰さんの本にはいくつかのレベルが紹介されており、とにかく取り掛かりやすい表現やレベルが気に入った。
さて、脳はどうやら、「働き続ける事」が本分みたい。
さて、これを少しでも静止、休めることができたならそれは素晴らしい事だと。
そこで幾つかの方法を紹介いただいている訳だが、
過去や未来、ネガティブな気持ちをみせようとする心のビジョン自体につきまとわず、来るもの拒まず、白旗をあげて、観察し続ける。
そして、何か一つの事に集中する。(1点凝視や呼吸に、、など)
他にもいくつかポイントはあるが、「集中する」こと自体はその時間において、脳と心が「みせようとし続ける運動」からは解放されている。ということです。
また、そういった強烈な集中は、いつもみせようとする強化されてしまった思考回路パターンの鎖を断ち切る力になると。
さて、音楽やっていながらこの基本的な「音に集中する。観察する。」こと自体に最近、深く深く意識を向ける日々な訳ですが。
1音の解像度、豊かさ。
そういった所から、丁寧に聴いていく。
どんどん分け入っていく。
見えてくる細かい音の描写、響。
そのころには、他の思考なんて入る余地もない。忘れていた感じ。
そして、それ自体に慣れてきて、思考がゆらめきだすなら、他の音を出したり、限界まで伸ばしたり、動かしたりするスキル限界のところへ一緒にいってみる。(早い動きではなくゆっくりと。)
すると、また「本気の集中」へと全神経が協力しだし、他の思考は入る余地なし。だって、必死だもん。
ロングノーツでプルプルと震えながら耐えている。
他の事、考える余地なし。
さて、
目の前の男性の生徒さんに話を戻します。
そんな感じで、いつもと変わらぬ何気ない稽古の風景。
彼はいつも真剣。
今日も真剣。
真剣すぎて、いつも汗をかく。
彼の大変だった近況にとって、笛を吹くだの、上達するなどは本当に些細な事だろう。
昔の僕のように何か壮大で1発で心境や世界観がひっくり変えるようなものはひとまず置いておいて、目の前の音に対して向き合うことは、それ以上でもそれ以下でもなく、些細で小さなこと。
本当に小さなことだけれども、きちんと集中、それも真剣であればあるほど、確実な脳と心の動きの休息となる。
そう、信じて、最近は音と向き合っているんだけれども、今日のクラスを終えた彼の表情は爽快だった。
これでいいんだと思った。
小さいけど確実だとも思った。
何気ないよ。
過ぎ去っていくよ。
彼にも僕にも記憶に残らないような、ただの稽古の一コマだ。
それ以上でも以下でもない。
音は残らず、また、脳や心は今頃、お互い活発に働いているだろう。
それでもOK。
むしろそれが自然。
だから、また少しの休息をとるように、瞑想や音を通じて休息すればいいと思う。
その時もそれ以上でもそれ以下でもなく、ただ真剣にあれればそれで。
それでいいんだと。思わせてくれたのは彰さんの教えが大きい。
もちろん、まだ経験不足の道半ばの僕のお話だ。
確信を語っている訳じゃない。
これから、少しづつ、今日の彼のような爽快な表情をお互いに見せては、答えらしきものを見つけて励まし合っていきたいと思う。
何か祈りたくなるようなクラスと表情だった。
感謝の念が後になって、じわーーーーっと沸き起こる。
音と瞑想の旅はまだまだはじまったばかり。
スペシャルサンクス:綿本彰先生
